お久しぶりです。私自身。
いろんなことがあったとしか言いようがないくらい、
いろんなことがあった。
いいこともあったし、
わるいこともあった。
そして、これからいいこともあるし、
大変なこともある。
当たり前だけど。
「告白」と「リリィシュシュのすべて」、
「三月のライオン」と「世界地図の下書き」と「ヘブン」。
私はいじめという環境下に身を置いたことはないけれど、
正確に言うと、ほんの少しいじめに加担したことはあったと思うけど、
近頃のいじめに比べたらかわいいもんだとか言ったら、
きっとそれは違うんだけれども、
最近のは、というか私の身近にあったものとはなんか全然違うものな感じがする。
でいて、こんなに同じ題材(テーマ)においても、
描き方(解決策)が全然違うってことは、
まぁ、それだけ実際起きているたくさんの問題の解決策も、
無数にあるわけだ。
なんて、妙に感心してしまったりしたのだけれども、
一番いい方法というか、そういうのってほんとにないんだなって。
そこに身を投じたら実感としてわかるものだったりするのかな。
なんか、いまいちピンと来なかったりもする。
それでいて、いじめられる側もいじめる側もその気持ちが手に取るようにわかりもする。
いじめる側の気持ちって本当、大したものではないと思う。
というか、自分はそうだったような気がする。
「相手の気持ち」に対する想像力が欠如しているだけで、
ねたんだり、気持ち悪がったり、なんとなくよくわからないもやもやがあったり、
そんなものだと思う。
私もそんなもんだったと思う。
でも、そこにはたまに、ごくまれに、
いじめる側の精一杯生きてる部分もあったりするから厄介だ。
結局メンタルで言ったら弱いほうがいじめている側だったりする。
この話、絶対結論出ないけど、
そして、いじめる側を肯定しようと思っているわけでも全くないけど、
結局なんなんだろうって思って考え始めた。
あの時、私はなぜあのいじめに参加したのか
(だからといって主犯がいたわけでもない、
なんとなく、みんながイライラしてた感じ)
って考えたくて。
まぁ、年齢にもよるけれども、
最近は大人が会社内でいじめやるなんて話もあるから、
一概には言えないけど、
小学校の頃の私たちは、
受験戦争真っ只中で、
今から考えると、結構ストレスフルだった。
ストレスっていう言葉も概念も知らなかったから、
もちろんストレス発散なんて方法も知らなかった。
私たちは、そんな知らない感情と向き合い、解消する行為として、
いじめをしていたのかな。
とか、思ったり。てか多分そうだ。
元気盛りの小学生がろくに遊ぶ時間も持たずに勉強勉強、
点数、順位、偏差値。
よっぽど勉強ができる子でない限り、ある程度のストレスがそこにないわけがない。
子供のいじめの大半は、見えない何かにストレスを感じるからのような気がする。
じゃあなんで、
大人の世界でいじめが起きるのか?
正確にはいじめる人がいるのかだ。
だって、いじめられる側が悪かったとしてだ、
ちゃんとまともに相手の気持ちがわかる人間なら、
いじめられたらどう思うか、わかるはずだから、
どんなにおかしいだろコイツ!って思っても、
叱ったり、怒ったりはあっても、
陰湿な嫌がらせや変なことを強要するなんて、なんかどうかしてる。
つーか、大人ってこと考えたら、
今のご時世、反撃だって怖いじゃない。
パワハラとかセクハラとかそんなたくさんの言葉に、
社会人はある程度守られているはずじゃない。
そこにあるのは、治外法権なんだろうか。
普通のごくまっとうな会社でも起きてるケースだってあるし。
いじめっ子がそのまま育っちゃったんかなぁ。
育ち方の問題だけでいいのかな。
なんか、この想像力の欠如。
わかんないなぁ。
理解不能具合が犯罪者と同レベルなんだが。
やめ。というか停止。
全然結論でない。
兎角、最近の私は、
劇的な伸びも、衰退もなく、
良くも悪くも、ゆっくりゆっくり地道に、
いろんな階段をのぼっているところです。
人生とか、いろんな方向性とか。
あと、新しいパソコンを買うとタイプしたくなるよね。
10年経てば、人生大分変わってきてる。
そんなことを、
夢と諦めとを両手に持って、感じています。